髪はギャップ萌えのダシになる
連続雑記チャレンジ2日目。
先日友人と話をしているときに、女性のどんな髪型が好きかという話題になった。 そのなかでショートが良いと語る友人がおり、ちょっと思うところがあったので書く。
最初に予防線を引いておく。導入は特定の好みを茶化すような書き方になっているが単に文章の都合であり、最終的には結局みんな同じ穴の狢だよなというところに着地するので、該当する友人及び友人と同じ考えを持っている人が読むことがあったらご承知おき願いたい。
前置き以上。
ショートが良い?
ショートが良いと語る友人曰く
- 女性なのにショートなのが何があったんだという感じで良い
- ショートの女性がウェディング衣装を着ていると、秘められた女性らしさが発露して良い
とのこと。(多分ショートというよりかはベリーショート的な長さの話をしている気がするが、本題ではないので伸ばさない)
女性解放の観点からは地球の果てまでブッ飛ばされそうな内容ではあるが、個人の好みの話なので拳を握った方もここは力を抜いてもらいたい。自分も女らしい・男らしいという概念はなかなか苦手で、そうした人間にこれはかなりのパンチだというのは分かる。ただ、個人の趣味趣向にとどまる限りは何を感じようが自由だ。
閑話休題。 友人の言葉からは、髪の短さにアンチ女性性を読み込み、それが演出する落差に魅力を感じているように思える。ギャップ萌えというやつだ。
この話を聞いたとき女性らしさ云々とは別に最初感じたのが、「それ別に髪型が好きなわけじゃなくない?」ということ。気になったのでこの点をツッコんだところ本人も自覚はあったようで、そうかもしれないといった感じの反応だった。
髪型とストーリー
とはいえ、髪型にストーリーを読み込んで魅力を感じるということ自体は別に珍しくない話だ。
ひとつ記事を紹介する。
この記事を見て、単純に「これめっちゃカッコよくない?!」「モヒカンはあんまり好きじゃない」などといったかたちで髪型を話題にすることができる。
一方で、「ロイヤルファミリーにふさわしいという旧き考え方を振り払い、ひとりの女性として自分らしく生きるという決意に溢れたスタイル」みたいな感じで話題にすることもできる。これは最初と異なり、髪型の話をダシにしたストーリーの話だ。
ダシにするという慣用句は悪い意味に使うけれど、ここではニュートラルに扱いたい。自分は髪型で一品が成立すると思うが、「ダシにすると旨いんだよ~」と言われたらそれはもう単に扱い方・好みの話になる。
友人の話に戻るが、こうして考えると(前提部分の考え方はちょっと相容れないものはあるけれど、)本人が感じているショートが好きという感覚そのものはケチを付けられるべきものではないように思う。そんな感覚に「それってぇ! 髪型を好きなわけじゃないですよねぇ!」みたいなツッコミを入れた人間がいるらしい。反省したほうがいいと思う。
というわけで
髪型をダシにした話をしてきたけれど、逆に一品として好きだとして、別にそれは高尚でもなんでもないという点は公正と自戒のために最後に触れておく。 人間個人を無視して部分のフェチを話す時点で高尚に語る資格は失われていて、「おっぱいはでかい方がいい」「いや、小さくてそれを気にしているのがいいんだよ」みたいな話と本質的に差がない。
そういうこともあり現代社会における正解は髪型への特定の関心など持たないことではあるのだけれど、そうした人間よりかは自分はこういう髪型が好きという話ができる人間の方が好感を覚えるので、人類には積極的に髪型の好みを持ってほしいと感じる。クソ喰らえ現代社会。おわり。