テーマ性と面白さが結びつく感覚がない on ボードゲーム

連続雑記チャレンジ6日目。

先日、ボードゲームテラフォーミング・マーズ』を友人に紹介したときのこと。 友人のひとりが「システムが古代文明の繁栄っぽくて興奮する」とテーマ性を高評価していた。

古代文明の繁栄っぽさと評するのは少し変わっている感じがするけれど、このゲームは赤茶の惑星である火星を緑にテラフォーミングしていくテーマ性・そのフレーバーも人気のひとつだと思う。

とはいえ実は、友人がテーマ性に触れたことには少し驚いた。 なぜなら、自分はテーマ性についてそういう感じ方をまったくしないからだ。

テーマ性と面白さの実感

自分は例えばテラフォーミング・マーズについて、ざっくり言えば「ワンゲームが長いけど面白い対戦型リソース管理ゲーム」みたいな捉え方をしている。ちょっと誇張した言い方だけれど、言われなければ火星植民ゲームだなんてまったく意識に上らない。

これはこのゲームのテーマ性がはまらなかっただけというお話でもなくて、例えば『プエルト・リコ』だってプランテーション経営のフレーバーなんて全然意識しない。良いゲームと認識すれど、テーマ性が良くて、それだから面白いみたいな感覚はない

ちなみに、自分がフレーバーを楽しむ興を一切解しないというわけではなく、そうしたロールプレイが主眼のゲームは普通に楽しめる。

そしてもちろんだけれど、テーマ性に意味がないとは考えていない。 例えば、テーマ設定がよくできているとゲームとして芯が通るとか、プレイヤーのルールへの理解がスムースになるとか、そういったことはまったくそうだと思う。

さらに言えば、ゲームプレイへの没入感が高まるなどしてそれが面白さにつながる、というのも理解自体はできる。ただ、実感がない。

見ないけど、いるのでは

なんとなく、いわゆる「ボードゲームプレイヤー」的な方のレビューなどでは(アブストラクトでなければ)テーマ性・フレーバーはたいてい触れられている印象がある。これに表されるように、ボードゲームをプレイするような人はみなこの点を重視している――わけでもないような気がする。

これはおそらく、そうではない人はわざわざ触れないので結果としてそれを踏まえている場合ばかりを目にするということだと思う。そんなこと普通ならわざわざ触れる必要もないし。

どっちのタイプでもすれ違いが起きないようにボードを囲えばいいわけだけれど、違うタイプの考えに触れるのは良くて、認識を見直す機会になる。

自分はテラフォーミング・マーズを色々考えて数字が動いて対戦するのが楽しいゲームと思っていたら、冒頭の言葉だった。そうだこのゲーム、良いテーマ設定がされ優れたフレーバーで人を魅了するゲームでもあったんだ。 冷徹な人間があるとき温かい心を取り戻したような感じで〆。